私を追い越していくから、なんとなく背中に「さよなら」と声をかけた。それが昨日の夕方。
今日たまたま会ったときに、
「さよならと言われたことに戸惑いました」
と言われた。
「私、さよならというあいさつが好きなので」
「はぁ」
「明るいあいさつが苦手なんです」
と、めちゃくちゃどうでもいいことを話していたら先輩が通りかかって
「悪いふたりが揃ってますね」
と笑われた。ちなみに以前、職場で本音を話せる人は唯一ならぬ唯三いると書いたことがあるが、この、悪いふたりと命名した人が私が唯一、そして悪いふたりの相方が唯二の人である……。三人もいればもう充分だよ……神さまありがとう。
全然別の人が「今日の服可愛いですね」とほめてくれて、嬉しくて思わず「今日は可愛い服で来ました」と大馬鹿な返事をしてしまう。何言ってるんや。
仕事はなんとなく進んでいくが、世界が元通りになればなるほど、だんだん怖くなってくる。これから本当にちゃんと仕事ができるのか。
人数がどっと増えてすれ違っていくみんなが怖い。もともと人間が怖いけど、声を出さないと声がこもっていくみたいに、人と関わってなければ他人に対する波長みたいなのもすっかりこもってしまうようで、そんなの誰も同じかと思っても窓から聞こえる声はすごく当たり前の普通の明るさだし、憂鬱になってくる。
そんなときに、たまたますれ違った人とちょっとしたハプニングがあり、
「大丈夫」と咄嗟に声が出た。
向こうからも「ありがとう」とごく自然な速度で答えが返されて、すごく懐かしくなった。前の職場にいたとき、こんな感じだった。特になにも考えず、自然と生まれる会話でお互い関われていた。いま咄嗟に声が出せたみたいに、うまくやっていけるといい。
久しぶりに連絡をくれた人から、本棚の写真とその人が作った言葉を教えてもらう。お互いに言葉をつかって何かを作っていたことに嬉しくなる。
詩に触れると、詩の沼に足が浸かってしまう。
短歌に触れれば無数の短歌たちが、私の足元でぽっかり口を開けているように思える。物語もそう、散文もそう。すぐ言葉に喰われる。
言葉は深淵で、どの深淵にも手を伸ばしてみたくなって、でも怖じ気づいてときどき眺めるくらいに終わって、そういうときすごく絶望する。
けれどその絶望が好き。
〈向い合って食べていた人は、見ることも聴くことも触ることも出来ない「物」となって消え失せ、私だけ残って食べ続けているのですが──納得がいかず、ふとあたりを見まわしてしまう。/ひょっとしたらあのとき、枇杷を食べていたのだけれど、あの人の指と手も食べてしまったのかな。──そんな気がしてきます。〉
武田百合子『ことばの食卓』より
- 作者:武田 百合子
- 発売日: 1991/08/01
- メディア: 文庫
著者はこの「枇杷」が、この本の中で最も愛着のあるものと書いていますが、私も「枇杷」が一番好き。だんなさんへの愛みたいなのがある。それでいて枇杷を食べる描写はちょっと狂いぎみで、とてもきれいなのがよい。なんか小川洋子思い出した。
くだものに執着する人間が私は好きなんだけど、それは梶井基次郎の『檸檬』のせいなのか。
他に印象に残ったのは、夢日記を書くのはこころとあたまに良くないと書かれていた所。
今日聴いていたのはこれ
〈清らかな心でぶっ潰したい/大切に壊したい/冷たい花を蹴り散らすように〉
the brilliant green『冷たい花』