たまに「私たちはどういう関係なのだろう」と思う人(ら)がいる。
相手のことは確かに好きだが恋人にはならず、普通の友人ということでもない気がする。
俗な意味でも変な意味ではなくて、特定の誰かだけのことでもない。
時おりそういうことが相手の性別に関係なく起こり、いつも答えが出せないまま、ただ好きという気持ちだけがそこにある。
〈関係を表す適切な、世間が納得する名前はなにもない。〉
(凪良ゆう『流浪の月』より)
※ほんの少し台詞を引用するのでそれが嫌な人は読まないでください。
あらすじ
ファミリーレストランで向かい合う、ふたりの大人と一人の少女。家族でも友人でもない奇妙な三人の物語は、ある一人の少女が公園で見知らぬ男性と出会うところから始まる…
序盤から不穏な空気が漂う物語。
読む前は桜庭一樹の『私の男』みたいな話なのかと思っていた。
島本理生の『あられもない祈り』も思い出したけれど、あれはあれで、名前の代わりになるようなはっきりとした欲望や暴力があった。
でも『流浪の月』ではそうもならない。「そういうのとは違うの。もっと切実に好きなの」/「セツジツって?」/「わたしがわたしでいるために、なくてはならないもの、みたいな」
(『流浪の月』より)
突然ですが、私(この日記を書いてる私)の嫌な思い出のひとつに「鍵事件」というのがあります。
去年の夏、わりと真夜中に帰宅したら家の鍵が壊れてしまい、家に入れなくなったという事件。田舎で夜中なので鍵屋さんも呼べない。
私はそのとき誰に言っていいのかわからなかった。誰かに助けてほしくて、誰がって一瞬思ったけど、こんなの誰も助けられないし、私も助けてとはよく頼めなかった。
そういうときに助けてくれる、よりかかれる、そんな絆がこの『流浪の月』の人たちの関係性ではないのかなあ。うまく言えないけど。ほんとにつらいとき思い出す人。
だから、この物語を読んで私は乙一の「未来予報」を思い出しました。
〈…存在がいつのまにか自分の中で重要になっていたのは、もっと切実で緊密で単純な何かがあったからだ。何かというのをうまく説明はできないが、例えば傷ついてつかれきった魂がそっと寄りかかるような存在のことに違いない。〉
(乙一『さみしさの周波数』収録「未来予報」より)
生きていくなかでそばにいてくれたほうがいい存在、いくつかの条件が合えば、その存在を家族や恋人や親友と定義できるのかな。
それらにはあてはまらなかったとしても、存在は自分の中に残り続ける。そんな人は世の中にけっこういるんじゃないのかな。
読むうちに胸がざわざわしてきて、とてつもなく苦しくなりつつ、一気に読み終えた本でした。