本のある日記

本のある日記

日記・その時にあてはまる本・ことば・音楽。

私にもわからないわたし自身の、

自分の中で気持ちが定まらないとき、誰かの言葉を身体の中にいれたくなる。言葉を齧って答えを得たくなる。答えとは、私もわからないわたし自身の感情。その名前。容態。

21日
夏至。年下の女の子が檸檬をくれる。あざやかな黄色。それをモチーフに絵を描いていたのだと言う。去年も今年もここでは今が檸檬の季節。得体のしれない不吉な、美しいぼくのかたまり。

「元気ないの?」と訊かれて「元気ですよ」と答えた。今日は本当に元気だと思う。

仕事のあいまにヒュー・プレイサー『ぼく自身のノオト』を読む。このまますべて読み通したくなって仕事終わりに喫茶店でさっと読んでしまう。
三十ニ歳のおじさんが、思ったことを書いているだけの本なのだと思う、たぶん。
その、この本の中に書かれた、彼のもとに落ちてきた思いは私たちもこれまでの人生の何処かで感じてきた感情なんだよね。

〈ぼくが君から何かを求めているのに、君はくれそうもないから、ぼくはそんな状態が嫌いになって君を悪く言うのさ。〉

(『ぼく自身のノオト』より引用)

どこからでも読めるし、たまたま開いたどこかのページに、私の心にも同じように散らばっている、悩める回路がある。
明確な何かではなく、「あのとき感じた痛みと同じかもしれない」という似ている心地。


〈必ずしも言葉で考える必要はない。言葉は、ぼくが直感に従って行動しようとするのを、しばしさまたげる。恐れ、迷い、欲求不満などは言葉にすがって存在しているのだ。〉
(同上より)

わからないことは言葉にできなくて、言葉にしてしまうことで永遠にわからなくなってしまうこともあると思う。

けれど、「わからないという過程」を言葉にしたこの本に救われる私もいた。だからやっぱり言葉にすがりたくなるし、私にもわからないわたし自身の感情がなんなのか他人の言葉で知りたくなる。
孤独を自分以外の他人の言葉で知ることで救われるような気もするし、より孤独になるために誰かの言葉にすがるのかもしれない。


〈孤独になることは、自分を愛して正しく認識するためには、欠くことのできない大切な行為だと信じる。〉
(同上より) 


なんでもないような本なのだが、それこそ「言いようのない」魅力があった。




お題「我が家の本棚」