4日
朝は、人を車に乗せて途中まで送っていく。仕事はぎりぎり間に合った。
職場を去った人が引き継ぎで舞い戻って来る。
夕方、島本理生の『星のように離れて雨のように散った』を読んでいると、頁をめくる手が止まらなくなって、そのまま半空に出かけて最後まで読んでしまう。半空、久しぶりに行くと場所がよく分からなくなっていた。
帰りにイオンに寄る。月曜の夜は人が少なくて好き。
〈アイロン掛けなら、ずっとできる。明日も、あさっても。あれは一人きりの作業だ。だけど私は好きな人との関係がずっと続くという感覚が分からない。〉
(島本理生『星のように離れて雨のように散った』より)
宮沢賢治の『銀河鉄道の夜』を研究する大学生の女の子・春の物語。以下物語の核心にもふれます。
実は私も学生時代は宮沢賢治ゼミに居ました。(一年間だけだけど)
『銀河鉄道の夜』が何度か改稿されていて、博士が出てこなくなるのも知っているし、それについての答えもゼミで出した記憶があるけど、なんと答えたのかは思い出せない。
でも私の中では、あれは心中の物語なのかなあと思ったりもしていた。
死にたいわけではないけど、ジョバンニは自分が死んでも良かったんだと思う。河原で寝そべっていたのも、本当は川に飛び込んだんじゃないのかなあと思っていた。
けどジョバンニは死なないし、博士が出てこなくなった稿では、カムパネルラがいなくなったあとはジョバンニも読者も自分で思考をすすめて、真相を考えなくてはいけなくなる。ひとりきりになってしまう。
でもそのほうがいいと思う。誰かに与えられる答えではないのかも。
この『星のように離れて雨のように散った』でも、一番最後に二種類の物語があらわれる。
なんで改稿したんだろう、この違いはなんだろう、と腑に落ちなかった。
好きになったとか、恋とか、そういう世間の言葉ではなく、自分の感覚で自分を言葉にしたということなのかなあ。
断絶も解決もない、そのままの温度感がある。
春ちゃんが、亜紀くんと一緒にいるときに感じる不安や居心地の違和感は、わかるところはとてもわかった。
一緒に寝るのが緊張するのとか。単に好きだからとかじゃないんだよね。
あと、異性としてだけ扱われたくはないけど、異性としても認めてほしいというところ。
関係ないけど終盤で出てくる色覚のエピソードが割と好き。
あとがきを読んで、『生まれる森』を読み返したくなった。あの話とても好き。
『生まれる森』とか『七緒のために』とか『夏の裁断』とか、倒れそうなくらい苦しい島本理生が懐かしくなった。
それは今の彼女が書く物語が、以前よりも少し、当事者としての痛みからは離れた距離感で書かれているからかもしれない。
たぶん以前だと、春ちゃんと亜紀くんの関係性も逆だし。
読みながらもっと激しく傷つきたいと思う気持ちが私にはあるし、もうあんな苦しいのは嫌だと思う気持ちもある。
書く方も同じだと思う。
私も詩が書きたい。って、あとがきの詩を読みながら思った。あの手の冷たさを書きたい。