今まで、心の動きを言葉にする行為が私を救ってきたのだけれど、言葉が認められなかったり、気づいてもらえなかったり、言葉にできなかったり、言葉そのものに敗北してしまう瞬間も今年は多くあった。言葉にすることをあきらめて、しまうことは、絶望と等しいってずっと想像してきたけど、そうでもないのかもしれない。言葉にしないことで生き延びる感情もあるのかもしれない。
そんなふうに思ったのも今年だった。
言葉にすることをあきらめること、それでいて、言葉にすることを続けていくこと。言葉を過信しすぎないで、言葉が伝わらないという出来事も、自分の想いなのに言葉にできないという事実も、愛したいし重要視したい。でも言葉にすることを、一切やめるということではなくこれからも続けていきたい。
そんなふうに思えるようになったのが、この一年なのかもしれない。
言葉は生まれるタイミングがあって、いま言葉にならない想いたちもいつか溢れる時が来る(かもしれない)。すぐでなくてもいい、考えたいだけ考えていい。どこかで、いつか言葉にしたい。書き出しだけ繰り返されて破られていく手紙のような、私の中のまだ降らない雪たち。
なんで言葉に出来ないんだろうって何度も悔やんだ想いたち、それはそれで愛している。(愛したい。)
本を読んだ。
「(前略)…『わかる』とか『ちゃんと』とか、すごくふわふわした言葉に思える。『わかる』って具体的にどういう状態? 『ちゃんと』ってどういうライン?…(後略)」
(一穂ミチ『恋とか愛とかやさしさなら』より引用)
(あらすじ)主人公の初夏(にいか)はカメラを扱う仕事をしている。仕事もそこそこ、恋人とも婚約して、幸せ(かもしれない)という日々を送っていた。だが、恋人からプロポーズを受けた翌日、恋人が盗撮の容疑で警察に捕まったという一報が入る…。
以下、一穂ミチさんの『恋とか愛とかやさしさなら』の内容に触れるのでネタバレが苦手な人は読まないでください。
答えを出すのが難しいテーマで、最後まで読んでも明確にすっきりする答えは出されない(作中の言葉を使うなら、まだ「見届けていない」、ともいえる)のだが、でも世の中すべてが言葉にできる答えを持っているわけでもないしな、と思ったりしながら読んでいた。
そんなに苦しむならそんなことせずに離れたらいいのに。とも思ったけど、その過程にある白黒つけられない部分こそが感情の中でもっとも要となる想いなんだろうなとも思った。
答えは白か黒かでしか表せられないかもしれないけど、その白と黒には言葉にできない色がたくさん含まれている……ってミスチルもそんな歌を歌っていたよね。
話が二篇収録されていて、後半の話を読むとまた感じ方が大きく変わった。前半で言葉にされなかった部分が明らかになったから。でも言葉にならなかったから壊れてしまったものもあるし、時が流れたから言葉にできた想いもあるし、言葉より先に限界を迎えてしまった現実もあるし、さまざまなことを経てあとから思うこともたくさん出てくるんだなって感じた。
難しいね。
こんなに悩んで意味ないよねってよく(自分で)思うけど、そんなことないって思えた。のは、この本を読んでよかったことかも。悩んでなやんで出した答え、あるいは感覚的に瞬間的に決まってしまった答えでも、過程がその後の自分を支える礎になりうる、と、思えた。
最後になったけど、2025年は、笑顔の年にしたいな。ありがちでも。
今週のお題「2024こんな年だった・2025こんな年にしたい」