先日、知人の異性ふたり(たまたま遭った)に言われた言葉が、後からだんだん気になってきた。
あの発言は性的な意味だったのではないか……でも私の自意識過剰ではないか……と、朝、歯磨きをしながらしだいに苛々してきて、顔を洗いに来た夫に聞かせてみた。
仮に夫が職場の後輩女性に同じ事を言っていたらどうかと例えてみるとやはり、変だよね? とお互いに合意したので、酷くはないけど軽薄な言葉ではあったのかもしれない。
ただその言葉自体は私自身を揶揄するものではなくて、その場の状況をからかっただけなので、別に傷ついたりはしなかった。でも、そこで何も言及できなかったこととか、ひとりがそれを言ってもうひとりがおいおい、と止めたこととか、あとから思い出すそれらすべてが苛々した。
同時に、むかむかすること(仕事)が別件でいくつかあって、なんで私はいつもこんなに言われないといけないんだろう? と考えていた。
一年前、対人関係で落ち込んだときに第三者から「そこ(私)が言いやすかったから言っただけだろう」とか「相手は暑くて苛々していたからつい言ってしまったんだろう」とか言われた。なおさらどうして? と思った。
今回も似たようなことを言われて「あなたが言いやすかったから言っているだけで、あなたが責められることではないから気にするな、心を無にしろ」と同じ人から声をかけられた。
たとえば私が185センチの男性だったら皆そんなに何もかも雑に乱暴に言葉を投げるだろうか。
矢継ぎ早に責めたりするだろうか。あんなふうにからかってきたりするだろうか。……とさかのぼってむかついたりした。
反撃されたら死ぬと一目でわかる相手にそんなことはしないだろう。皆、無意識のうちでも相手を判断して言葉を選んでいるはずだ。
以前、知り合いが不審者と遭遇してしまったことがある。「よく殺されませんでしたね」と私は言ったが、知り合いは185センチの屈強な男性であることが、まったく影響していないことはないとも思っていた。例えばそこにいたのが私だったらどうなっていたのか。何もないかもしれないけど何があるかもしれない。相手に威圧を与えられるフィジカルの強さが羨ましかった。
だから私も185センチの屈強なフィジカルがあれば、そして男であればもっと傷つかずに済んだのでは? と、悲しいことがあるたび思う。ないものねだりとわかっているけど。
そんな感じでもやもやしていたら、また別のある人が私のもとへ訪れた。その人は以前私に、「何か困ってることあれば言ってね」と言っていた。
仕事の分野が同じだし、同じ案件を一緒にしている(というテイで私が大半している)ので、手伝えることがあれば言えよと言ってくれたのだけど、私はいつも「大丈夫です」とだけ返して流していた。
でもそう言ってたしな。と、この日は思って、
「最近どう?」と聞かれたので
「困ってます」と言ってみた。
「何に?」「すべてに」
そして色んな話を聞いてもらった。仕事の不満と、心の中でもやもやしているあの言葉など、話せば話すほど自分が愚かな気もしてきて、でもどうしてそんな風に感じないといけないのかなとまたもやもやしつつ。
その人は具体的な解決策をいくつか提示してくれた。話したあとは私もいくらか気分が落ち着いていたので、もうそこで話は終わった。
そういえばこの人は「仕事で過去のことを持ち出すのはいつも女」と前に言っていた。世間では叩かれそうな発言だが、いくつかそういう経験があって出た言葉なのだろうとも感じた。私もやはり女だったか……でも女の愚痴をうまく聞き流し変に寄り添いすぎない男は女にとっても楽だ。
それがおとといで、それから空いた時間がいくらかあったので本を一冊読んだ。
アンソロジー『私の身体を生きる』
前に本屋でみつけて、島本理生が寄稿しているので買った一冊だった。身体にまつわるエッセイアンソロジー。
これね、すごかったよ。島本理生が好きな人はみんな読むべきだし、他のどの人の文章も良かった。
性とか身体の話はどうしても「打ち明ける」という言葉で表現されがちだけど、その言葉に付随する後ろめたさはこの本に似合わない。
なんというか、でも「真摯」とも「素直」とも「告白」とも違う。その人の性(生)の感じ方についてありのままを綴った文章、という感じ。
幼少期から振り返って書いている人が多いのも印象的だった。誰かに傷つけられた経験がある人も多く、傷ついた経験は性的な感覚に影響を及ぼすんだなと考えさせられた。
読むうちに私も記憶の中に封じ込めたいろんなことを思い出したり引きずり出されるような気持ちになった。
(ここから個人的な話)
私は、昔から女性は苦手だった。ねちねちしてるし気分屋だし、感情が激しいし、異性の方が気を使わなくて楽だった。
でもあるときから(働き出してから)異性に対しての感覚がねじ曲がってしまった気がする。
異性の上司と上手く行かなかったこととか、それによって傷ついたことをずっと引きずって、異性との関わりでその傷を打ち消そうと考え始めた。
いざ異性と向き合うと、男性って女性をこんなに利用したり雑に扱ったりできるんだと知って、もっと心身のバランスを崩した。女である限り異性はそばに来てくれるけど、女である限り(性差がある限り)絶対に埋められない何かがある。
だから髪を短く切ったり、185センチになりたいと願ってみたりするけど、じゃあ同性として彼らと同質になりたいのか? と自分に問うとそういうわけではなかった。女でなくなりたいわけではない。
異性であることで傷つくのは悲しいけれど、異性であるのに選ばれなかったり雑に扱われたり大切なものになれないことがもっと絶望、って感じだった。
女で良かったと思うけど、女であることが時々不便なこともある。女でなければもっとお互い優しくできた人がいたのかもしれない。
でもそんなのはどの立場にいても何かしら思うことで、仕方がない。これはあくまで、私の個人的な想いです。
『私の身体を生きる』とは、今までに受けた傷もふくめて生きていく、ということだと感じたけど、でも傷つけられた事実を美化するわけでもなく、ねじれた思いのまま抱えていきたい。永遠のテーマとして。
女でなければふたりでいられた、というのはむかし作った短歌の一部である。でも今思うと、異性でなければ近づくこともなかったのかもしれないね。互いに互いを利用したい気持ちが、どこかにあったんだと思う。