本のある日記

本のある日記

日記・その時にあてはまる本・ことば・音楽。

雨と傷って似ているのかもね

感情的な人間なのに、人生の大体の部分は感情と現実を切り分けて考えなければならない場面ばかりで苦しい。

最近のことを書きます

 

・友人とお茶をした。半年〜年1で会う人たちがいて、近況報告した。自分の人生だけで精いっぱいだけど、人の話を聞くとみんなそれぞれ抱える十字架はあるらしい。十字架まではいかなくても、薔薇の刺くらいは傷や不安要素を抱えている。(友人が育てている)植物あげようか?と聞かれたけど枯らしてしまう予感しかなくて断った。大切にしようよりも、枯らしてしまうであろうという自分のほうが強いらしい。ごめんね。

友人と、対人関係についての話をしていたとき、「関係にとらわれすぎでは?」と言われた。関係というか、感情にとらわれている。

解散したあと友人ひとりと羊雲を訪れた。ふとしたときに作品を見るのは大事なのかも。気持ちが切り替えられるし、人と見るのも自分にはない視点があって楽しい。

 

太宰治の「駈込み訴え」を読んだ。主人公が三十四歳で同い年だった。でも「東京八景」のほうが生々しくて面白かった。何か書きたい、書いて残しておきたいなという気持ちになった。太宰治の文体はどこか飾らない魅力があるというか、センスがある。悲しくても見苦しくても、なんか可愛い。

これを読んだ日はすごく忙しくて、合間の時間をぬって夫とコーヒーを飲みながら本を読んだ。短いけどけっこういい時間だった。読書っていいね。

 

・気持ちがざわざわしているのでChatGPTに相談したら「感情は通り雨」と答えられた。

外はちょうど雨が降っている。やんだらここから出ていこうと思う。

でも、通り雨だとしても凍えるし、濡れてしまうし、空が暗くなるのは確かでしょう。私はそういう過程にとらわれすぎているのだろうか?

 

・夏の終わりから短歌を作っている。表現が漠然としていて、湿っている。もっと解像度を上げたいけど、これ以上は直視できないのかもしれない。自分の感情を。

 

・職場であること(全然大したことではない)があって涙が止まらなくなった。

もう終わったことなんだけど自分の中ではずっと整理がついていないことがあって、まだ大丈夫じゃないんだと知って苦しくなった。

 

最近の感情をまとめると、忙しすぎるし、なんか気が乗らない。いっぱいいっぱい。

 

冴えない/行かなきゃ

朝、家を出るとき。

「行かなきゃ…」と思ってから台所でお茶を飲んで、玄関へ向かう。毎朝思っている。

毎朝、奮い立たせて出かけているって、まあまあ深刻だな…と今朝ふいに思った。

 

今日は時間が取れたので、子宮頸がんの検診に行こうと決めた。前回からずいぶん、間が空いてしまった。忙しかったし、なかなか来れなかった原因がないわけじゃない。でも気が乗らなかったというのもある。行きたくないなとかではないのだが。

女性が本当に身体の調子がいいときってわずかな日数しかない。けっこう縛られた時間の中で生きているなと思う。

病院の先生は優しくて、「他に何か気になることありますか?」と何度も聞いてくれたけど、何も聞かなかった。前は妊娠について聞いたと思う。子ども、いつかできるかな…

ただ、エコーを見ながら排卵していますねと言われて、私、排卵してるんだ…と知れたのは良かった。

このあと仕事なんだけど、まだ時間に余裕があるし、気が乗らなくて(そんなんばっかりやな)ちょっとお茶している。店内の人が多すぎてテラスに出てきた。風が気持ちいい。ずっと秋がいい。

 

追記

行けば何もなかったかのように平然と過ごし、残業して帰ってきた。いまは、上の文章を書いてから数日経っている。

最近なにごともうまくいかない。モチベーションがあがらない。むしろ下がるようなことが多い。「覇気がない」とか「疲れてる」と言われることも増えた。いまはいろいろと調子がよくない。また上がってくるときもあると思うけどさ。

 

思えば昨日から、いいえ、最初から間違っていた。

涼しい朝、新しい秋服をおろした。気候も良く完璧な日に思えた。

でも色々アクシデントがあり、けっこう落ち込んだ。どうすればよかったのか、といくら考えてもたられば論にしか過ぎなくて、起こった事実は変えられない。きっと今日じゃなくてもいつか同じように失敗していたと思う。過去より今後のほうがずっと大事。

と、内なる正しい私は言う。

(余談だけど、私は感情的なところがあるので、心にいつも「正しい自分」を分けて存在させていて、どんな場面であっても、呼び出したらその正しい自分が正しい意見を言うように決めている。自分を切り替える条件を定めて持っている、というべきか)

でも感情的な私は中々切り替えられない。落ち込んだまま、ある人にあらましすべてを打ち明けたら、「すべての二択を間違えたんだね」と言われた。

そうだ。けさ新しい服をおろして、完璧だと思い込んで油断してしまったこととか、そもそも昨日、あれを変えてこうしようと思ってしまったこと。そうしなければ違っていた。

昨日から間違っていた。でも、昨日の選択をしたのはもっと過去からの積み重ねてきた色々なことがあったゆえで、つまりそうなるに至ったきっかけがある……もう、つまりは、最初から間違っていたのかもしれない。

と、思って、また落ち込んだ。そしてまた正しい自分が正しい(もっともらしい)ことを言う。

みんな優しいし、気を遣ってくれている。本当に色々と。ちょっとしたときにくれる言葉とか、のぞいてくれる存在とか。わかるよ、わかるけどー

 

書いてて思ったけど、まだ気持ちの整理ができてません。明日もがんばります。

 

木尾士目Spotted flower 8巻』

買った。年に一度の楽しみ〜

これも、とりかえしのつかない話だよね。

しかし思ったよりポップに大団円に向かっている感じでお、おう…ってなった。マダラメ(仮)の卑屈さは良かった。というかわかるよ。

読み返したらコーサカ(仮)が「あの発表」のとき少しも笑ってない!がんばれコーサカ、消えないで〜!!

合宿行きたい。貸切旅館の、どこで誰が何してるかわかんないあの夜の空気の中、お酒飲みたい。浴びるほど。

でも現実の私はお酒飲みたくない。人と近づきたくない。今は。今は、ね!

 

夜思い出す

9月に入ってから情緒安定せず。秋の心を訴えかけると書いて愁訴と読む。これは秋が来ただけなんだ、季節の変わり目でバイオリズムが狂っているだけなんだ、と自分に言い聞かせても小さなことで傷ついた気持ちになったりする。不満はないのに不安になったり。

すべてをバイオリズムのせいにして職場でハーゲンダッツを食べても解消されない、もやもやがずっとある。

かさぶたを剥がせばまた悪化するみたいに、放っておけばいいものに何度も触れ直して心が痛くなったりしている。夜思い出して後悔したり、昔の日記を読み返して死にたくなったりしている。つらいことを書き残すのは嫌だからしていないのだが、よい思い出も時には劇薬になる。

コンディションがいいときは日記を書いて、乱れたときは歌を詠んで(詩を綴って)、と生きている。そのときはつらいがあとから考えると平安の女の暮らし方みたいで良いような気もする。

 

ある人が転職の話をしていて、「転職サイトに載っている仕事を見ても自分にしっくりこない」と言っていた。

私は最近、仕事がつらいとき、みたいな本を読んでいます。と言うと、そこに何が書いてあるの?と聞かれたので

「人の言葉は気にするな。まわりのことは考えるな。ということ」と答えたら、

「それはそう。とくに自分(ここではその人からみた私のこと)はそう」と言われた。

また、考えすぎだと思われているのだろう。

でも私からしたらみんなが異常なんだけどな。その日によって言うことが変わったり、簡単に興味をなくしたり、近づいてきたり傷つけたり優しくしたり。人にそんなに簡単に影響を及ぼさないで。……そんな私があまりに自分勝手かな?

というかこの人ともこんなことが話したいわけじゃないのにな。

その仕事向いてるから続けてほしいと言いたいし、私だって転職サイト見てると言いたいし、悩める人のための本を読んでいることを伝えて何かを知らせたいわけでもない。

でもうまく話せない。三十半ばにもなって他人の何を恐れることがあるんだろう。と思うけど。

結局わからない、他人にどこまでを許して、どこまでが許されるのか、逆に許してないのになぜそこまで踏み込んでくるのか、それをなぜ許せないのか。そんなこと考えなくていいのか、どうかも。

 

また違う日、ある人に、

「何かをあなたに言おうと思って、そのことを夜考えてたんだけど忘れたわ」と言われた。

私が誰かのことを夜思い出す感覚と、その人が誰かのことを夜考える感覚は天と地ほど違うものだと思うのだけど、でも忘れないでくれてありがとう。と感じた。重たいでしょ?私。だからあんまり関わらないで!とほんとは叫びたい。

 

『別冊太陽 矢沢あいNANA』の世界』

TSUTAYAで見かけて購入した。

それからNANAが自分の中でなんとなく再ブームになっている。赤いチェックのスカートとか、黒い服とか欲しくなる。

私は最初の頃の、新生活が始まっていく雰囲気が好きだった。あのころは中学生(まだ子ども)だったので今読む方が心に刺さる感じがある。矢沢あい、人の心の弱さを描くのがうますぎる。

ナナのヤスに対する感情とかすごく生々しい。都合のいい存在、にせざるを得ない存在。

今読むとタクミが好き(当時はシンちゃん)。ハチは間違ってないよ。決定力とタフさは大事だよね。

 

 

女でなければふたりでいられた

先日、知人の異性ふたり(たまたま遭った)に言われた言葉が、後からだんだん気になってきた。

あの発言は性的な意味だったのではないか……でも私の自意識過剰ではないか……と、朝、歯磨きをしながらしだいに苛々してきて、顔を洗いに来た夫に聞かせてみた。

仮に夫が職場の後輩女性に同じ事を言っていたらどうかと例えてみるとやはり、変だよね? とお互いに合意したので、酷くはないけど軽薄な言葉ではあったのかもしれない。

ただその言葉自体は私自身を揶揄するものではなくて、その場の状況をからかっただけなので、別に傷ついたりはしなかった。でも、そこで何も言及できなかったこととか、ひとりがそれを言ってもうひとりがおいおい、と止めたこととか、あとから思い出すそれらすべてが苛々した。

同時に、むかむかすること(仕事)が別件でいくつかあって、なんで私はいつもこんなに言われないといけないんだろう? と考えていた。

一年前、対人関係で落ち込んだときに第三者から「そこ(私)が言いやすかったから言っただけだろう」とか「相手は暑くて苛々していたからつい言ってしまったんだろう」とか言われた。なおさらどうして? と思った。

今回も似たようなことを言われて「あなたが言いやすかったから言っているだけで、あなたが責められることではないから気にするな、心を無にしろ」と同じ人から声をかけられた。

たとえば私が185センチの男性だったら皆そんなに何もかも雑に乱暴に言葉を投げるだろうか。

矢継ぎ早に責めたりするだろうか。あんなふうにからかってきたりするだろうか。……とさかのぼってむかついたりした。

反撃されたら死ぬと一目でわかる相手にそんなことはしないだろう。皆、無意識のうちでも相手を判断して言葉を選んでいるはずだ。

 

以前、知り合いが不審者と遭遇してしまったことがある。「よく殺されませんでしたね」と私は言ったが、知り合いは185センチの屈強な男性であることが、まったく影響していないことはないとも思っていた。例えばそこにいたのが私だったらどうなっていたのか。何もないかもしれないけど何があるかもしれない。相手に威圧を与えられるフィジカルの強さが羨ましかった。

だから私も185センチの屈強なフィジカルがあれば、そして男であればもっと傷つかずに済んだのでは? と、悲しいことがあるたび思う。ないものねだりとわかっているけど。

そんな感じでもやもやしていたら、また別のある人が私のもとへ訪れた。その人は以前私に、「何か困ってることあれば言ってね」と言っていた。

仕事の分野が同じだし、同じ案件を一緒にしている(というテイで私が大半している)ので、手伝えることがあれば言えよと言ってくれたのだけど、私はいつも「大丈夫です」とだけ返して流していた。

でもそう言ってたしな。と、この日は思って、

「最近どう?」と聞かれたので

「困ってます」と言ってみた。

「何に?」「すべてに」

そして色んな話を聞いてもらった。仕事の不満と、心の中でもやもやしているあの言葉など、話せば話すほど自分が愚かな気もしてきて、でもどうしてそんな風に感じないといけないのかなとまたもやもやしつつ。

その人は具体的な解決策をいくつか提示してくれた。話したあとは私もいくらか気分が落ち着いていたので、もうそこで話は終わった。

そういえばこの人は「仕事で過去のことを持ち出すのはいつも女」と前に言っていた。世間では叩かれそうな発言だが、いくつかそういう経験があって出た言葉なのだろうとも感じた。私もやはり女だったか……でも女の愚痴をうまく聞き流し変に寄り添いすぎない男は女にとっても楽だ。

 

それがおとといで、それから空いた時間がいくらかあったので本を一冊読んだ。

アンソロジー『私の身体を生きる』

前に本屋でみつけて、島本理生が寄稿しているので買った一冊だった。身体にまつわるエッセイアンソロジー

これね、すごかったよ。島本理生が好きな人はみんな読むべきだし、他のどの人の文章も良かった。

性とか身体の話はどうしても「打ち明ける」という言葉で表現されがちだけど、その言葉に付随する後ろめたさはこの本に似合わない。

なんというか、でも「真摯」とも「素直」とも「告白」とも違う。その人の性(生)の感じ方についてありのままを綴った文章、という感じ。

幼少期から振り返って書いている人が多いのも印象的だった。誰かに傷つけられた経験がある人も多く、傷ついた経験は性的な感覚に影響を及ぼすんだなと考えさせられた。

読むうちに私も記憶の中に封じ込めたいろんなことを思い出したり引きずり出されるような気持ちになった。

(ここから個人的な話)

私は、昔から女性は苦手だった。ねちねちしてるし気分屋だし、感情が激しいし、異性の方が気を使わなくて楽だった。

でもあるときから(働き出してから)異性に対しての感覚がねじ曲がってしまった気がする。

異性の上司と上手く行かなかったこととか、それによって傷ついたことをずっと引きずって、異性との関わりでその傷を打ち消そうと考え始めた。

いざ異性と向き合うと、男性って女性をこんなに利用したり雑に扱ったりできるんだと知って、もっと心身のバランスを崩した。女である限り異性はそばに来てくれるけど、女である限り(性差がある限り)絶対に埋められない何かがある。

だから髪を短く切ったり、185センチになりたいと願ってみたりするけど、じゃあ同性として彼らと同質になりたいのか? と自分に問うとそういうわけではなかった。女でなくなりたいわけではない。

異性であることで傷つくのは悲しいけれど、異性であるのに選ばれなかったり雑に扱われたり大切なものになれないことがもっと絶望、って感じだった。

女で良かったと思うけど、女であることが時々不便なこともある。女でなければもっとお互い優しくできた人がいたのかもしれない。

でもそんなのはどの立場にいても何かしら思うことで、仕方がない。これはあくまで、私の個人的な想いです。

『私の身体を生きる』とは、今までに受けた傷もふくめて生きていく、ということだと感じたけど、でも傷つけられた事実を美化するわけでもなく、ねじれた思いのまま抱えていきたい。永遠のテーマとして。

女でなければふたりでいられた、というのはむかし作った短歌の一部である。でも今思うと、異性でなければ近づくこともなかったのかもしれないね。互いに互いを利用したい気持ちが、どこかにあったんだと思う。