12月28日
青木海青子さん(名前きれい)の『不完全な司書』を読む。
奈良県で私設図書館を営まれている方で、その場所を知ったのは、昔よく本の話をしていた友人から「最近気になる場所」として「そこ」……「ルチャ・リブロ」のことを教えてもらったからだった。
この本を買ってから一年以上経ってようやく読んだ。
筆者の青木さんはあるとき心身に不調をきたし、治療をすすめながら、私設図書館をひらこうと思い立つ。
心の調子が良くないときに他者と関わる「図書館」のかたちをとったのはなぜだろうと以前から思っていた。私なら不調のときは積極的に他者と関わりたくないからだ。
どうやらこの本を読むと、図書館という場がケアにも(館主にとっても、利用者にとっても)なっているらしい。
そして、公的な空間ほどにはルールを固めずにある程度自由にしておくことで、相互に「図書館」が形づくられていく。それはお互いのやりとりで過ごし方を確認したり、お互いの意思で本を借りたり寄贈したり、という感じで。
思えば私は、今日は一日調子が悪くて、外出できずに寝込んでいた。今日は、というかこの一週間ずっと家にいるのだが。
家にいると、家族もいるので話す相手はいるが、ずーっと籠っているとフラストレーションに襲われてくる。(あんなに孤独が欲しいと言っていたのにね)
自分の部屋には自分の内面しか向き合うものがないから。
自分の欲望、自分の嗜好、自分の思考、自分の不安。とめどなく自分ばかりの部屋で壊れてしまいそうになってきた。
そこで本を開いた。それがこの本だ。
本を開くと、他者の言葉がある。はじめは馴染まない。ページをめくるうちにだんだんとなれてきて、のってくる。多少傷んでもいいようにカバーを外して、ぐっと読み込む。
私は本を通して外の世界に触れた。少し気持ちが楽になった。これもケアだと思う。
大学のときの先生が、物語とは「ない部分を埋めること」だと教えてくれた。そう考えると、青木さんの図書館も、またひとつの物語のような感じなのかもしれない。
…プリントに載ったクラスメイトの作品を読むのもすごく好きで、直接話すより、きちんとその人と向かい合ったような心持ちを覚えていました。
青木海青子『不完全な司書』収録「光の方へ駆ける」より引用
私も本を通して話すほうが、なんとなくその人の本質が見えるような気がして好き。
この人はこんな本を読むんだな、と思うとき、本が共通言語になってくれるような、あるいは知らない言葉を知るような、そんな嬉しさがある。
本や言葉や表現は、どこに行かずとも変えるし読める時代だけど、一冊の本を誰かと共有するのも、特別な時間だと思う。
図書館である理由、一冊の本が「そこ」にあって、「そこ」で本を手に取る理由、それは自分ではない誰かの存在が密接に関わっているからなのかも。図書館は、去った利用者がまた戻ってくるし。
他にも図書館は森とか、絶対図書館だと思って探すと見つかるとか、けっこうわかるな、と思う部分があって楽しかった。
風邪で、フラストレーションに襲われて、まだ本調子でない、不完全な私のときにこの本を読めて嬉しかった。

