あることについて考えるとき、どこからどうなって今に至っているんだろう? と疑問がわく。自分の日記を過去から読み返す。………わからない。わかるのは日記が途切れながらも続いていて、そして、短いように思えても長い期間を経て今の私があるということ。
とりとめなく書くよ。
苦手だけど、話せばいろいろ話が弾む人。友達のような口調で話しかけてしまう人、苦手と話せるは別みたいだと気づく。
昔気まずくなった人、話すたびに心の底では、また話せるようになって良かったなと思っている。過度に期待しないということができるようになった。心に普段いないけど、ときどき思い出すと楽しく過ごせる。
気持ちが悪い、どこかで腑に落ちないことを他者からも見透かされているような気がして恥ずかしくなる。気遣うようで、ねえそれっておかしいかもよ、って言われているようにも感じるから。たぶんあなたが正しい、でも私も最善を尽くしたいの。
あなたたちの純粋さが嫌いだ、もっとあなたたちも自分のことを嫌いになって。自分たちのおかしい部分に気づいてときおり人から遠ざかってほしい。みんな誰かから見るとおかしいし、あなたたちのなかで私はおかしくありたくない。
君はずっと寝ているの。
日々は幸せだけどときどき寂しいよ。
人人人、人のことばかり考えてしまう。人なんて嫌なのに。
『光る君へ』を観て、この人が気になって、読んだ。
三十日間あるなら三十夜を一緒に過ごしたいと伝えたら、君みたいな人のために閏月があるのかもね。と答えるところが好きだった。
誰かのことを「待つ」文学だなぁと思った。私、太宰治の「待つ」が好きなのね。それを読んで以来、誰かを待つ物語を見ると気になってしまう。蜻蛉日記は日記だけど、「待つ」ことの遣る瀬無さが痛いほど伝わってきたよ。千年も前の日記を読むことも、千年も前の人の気持ちに共感できることもすごくない? すごいと思う。文学が。
突然休んでどこかに行きたい。そして虚無になってまた日常に戻りたい。