6/30
あんなに優しかった人、今日はとても塩対応だった。しかしその冷たさこそ人間という感じでいいのかもしれない。
人間は一筋縄ではいかない。
午前は何となくびっちりと仕事をしてしまう。お昼も食べられないまま雨の中、隣の町へ出張。
知らない街へ出かけられる出張は好き。ミスドを見つけて、スーパーを見つけて、夕飯の材料を買って帰る。シーフードカレー。
7/1
朝、練習。
寝起きからなんとなく調子が悪かったのだが、練習後あきらかに様子がおかしい。
背中がものすごく痛い。攣っている。
帰宅後もだんだん悪化し、ついに座るのも苦しくなって、もう誰でも良いから助けて……という気持ちで近所の整骨院へ。
炎症ですねーといわれて電気を流してもらい、湿布を貼ってもらった。その後は何もできず家で寝る。ぎっくり背中というものらしい。身体をねじれなくて、車のドアを開けるのすら一苦労した。
旦那さんがすべての家事を担ってくれて、感謝しか無い。
夜は少し楽になったので寝ながら読書したり欲しい本をカートに入れたり。
なんかこのブログのアクセス爆増してる……まさかどこかに晒され……とドキドキしていたが、はてなブログのおすすめに表示していただいてたらしい。運営のみなさん、良いねしてくださった方々、本当にありがとうございます。
2日
まだ背中は痛むが、昨日よりははるかに楽。
「私といると週末はカフェで読書しかしなくなるよ」
「それも好きだよ」
という会話を旦那さんとして、つけ麺を食べたあとコメダ珈琲へ。
私は読書、彼は勉強。去年の今頃は私も勉強漬けだったが、もうあれから一年経つのか……。
カフェインを摂りながら本も摂ると、脳内でアドレナリンがどんどん出ているような心地になる。
先日エッセイを読んだ文月悠光の詩集と、数年前に買って積んでいた三品輝起さんの『雑貨の終わり』を読んだ。天気は夕立になりそうな晴れ。
読書しながら、過去の日記を読み返す。まとも(平穏)なことを書き出したのはようやく去年ぐらいからで、二年前はまだまあまあ危険だった。
好きな人と好きな場所で好きな本を読むという日が今後もずっとあればいいが……
明日から仕事も忙しくなりそう。来週、一週間はどうにかがんばりたい。
〈詩を、生きる信号としたために、私は幾度もことばに轢かれた。〉
(文月悠光『適切な世界の適切ならざる私』収録「横断歩道」より引用)
先日エッセイ『臆病な詩人、街へ出る。』を読んだので、詩集をようやく読む。『洗礼ダイアリー』を買ったころ、数年前から、家においたまま読めなかった。同い年ということもあり、私の(文系女子の)欲しい物をすべて持つ、洗礼ダイアリーの中の文月悠光はとても眩しかった。
でも今ようやく読めました。
詩になると、エッセイの何倍も言葉のエッジが効いていて、わたしは詩のなかの彼女のほうがずっと好きだ。
書いた年齢が若いので、舞台や設定に少女性を強く感じるが、そのことでかえって、私たちの近いところに詩の世界が降りてきている気がする。学校の中での小宇宙、自分の身近でもありうる「どこか浮いている」居心地の悪さ。
あと、言葉に対する責任を感じる。言葉に対して責任を負っていることを文面から感じ取る、みたいな。
洗濯機のやつ(洗濯日和)が好き。
本当に、日常のなかの出来事で詩を書いていて、ああ暮らしの中で彼女はそっと、詩の世界にその心を接続していたんだな。と思った。それは同時に、私たちでもできるはずのことなのだが、私たちではできないほど端正に、素直に描けることが彼女の才能なのだと思う。
綿矢りさが帯を書いているが、似たものなのかもしれない。早熟ゆえにあまりに長い余生に苦しむことも多いのだろうな。