眼の前に椅子を二脚置かれて、どちらがいいか訊かれる夢を見た。奥行きのある椅子か、少し小さい椅子。小さい椅子のほうが目的には合っているとすすめられた。
その目的は悪いこと。私の深層心理から拾ってきたこと。
8/12
旦那さんの親戚とBBQをする。たくさんの人と出会って、映画の『サマーウォーズ』みたいだった。でも、そろって優しい方たちだった。
13日
お義父さんに広島焼きをごちそうしていただいた。道中の車内では、70〜90年代のポップスが流れていた。懐メロを並べて聴くとサザンの『勝手にシンドバッド』はかなり異質で、はっとなった。
家族で会う日はいつも雨が降る。今回も大雨で、びしょ濡れになりながら笑った。それが楽しかった。
14日
私の家族、旦那の家族とそれぞれ会う。甥姪とも対面した。去年の今頃はまだ顔合わせもしていなかったのに、この短い期間で親族と呼ぶ人がずいぶん増えた。不思議。
広い書店に行く。この話はまた次回。
星野文月『私の証明』『プールの底から月を見る』、岡田美智男『弱いロボット』を購入した。星野さんの本は店頭に置かれていて、装丁に惹かれて中をめくると、なんとなく必要な気がした。
疲れて、コンビニで好きなものを買って旦那さんとパーティした。「これもいつか思い出になるんだね」と彼がぼんやり言っていた。
久しぶりに人の肌に触れて、一瞬で心を許してしまった。それがこんなに苦しくなるなんて思わなかった。
(星野文月『私の証明』より)
待たされることほど心が壊れていく時間って無いよなあと思う。そう思うと著者は可哀そうだし、よく耐えたし、まわりの人間も冷たい気がするし。むしろこれだけの乱れで済んだのなら充分すぎるほど頑張っている。
そして心の「たが」が壊れていく過程ほど読んでいて惹き込まれる文になるのだとも思う。壊れそうなとき書かずにはいられない、表さずにはいられない、知ってもらわずにはいられない。読み手を引き付ける強い呪いがかかっている。たがを外すと瞬間、楽になるけど、あとに残るいいことは何もない……と、思っている。
植本一子さんの名前が出るたび思ったのは、植本さんのように何もかもつまびらかに発表することが是か非かみたいな気持ちが以前私にはあったのだが、彼女の発露によって救われた(影響を受けた)人も多くいるんだろうなということ。私もそうなのだと思う。
著者はまだ若いし、幸せになってほしい。
余談だが、なんとなく読みすすめながらもやもやと感じる何かがあった。共感できるやるせなさは大いにあるが、共感しきれない部分もあった。
読み終えたあとに彼女(星野さん)のSNSを見た。本の中では、カメラマンに撮ってもらった自分の写真を載せたが消した、という記述があったが、今ではもう色々表明した後だからなのだろうか。自分の写真も他者とのつながりの写真もたくさん載せられていた。
それを見て、自分(私)とは少し隔たりを感じた。
もともと被写体に選ばれるほどの人だし、友人も多いし、彼女は、「ある程度許されている人」のような印象を受けた。ある程度、自分を開いている、ある程度のステータスを持った女の子。
だからどうなのかというと……ちょっと羨ましかった。ひがみである。
これもまったく関係ないが、時おり、私のことぶっ壊してほしいな。と思う瞬間がある。でも実際にぶっ壊されたら本当に死ぬと思う。考えるだけが楽しいから、つまりは誰にも私のことを壊させない。最近の結論はこれ。
今週のお題「最近壊した・壊れたもの」