本のある日記

本のある日記

日記・その時にあてはまる本・ことば・音楽。

境界線

夢で見た人が久しぶりに話しかけてくる。動画で見た人とスーパーで偶然遭遇する。一年前に着た服をまとって一年前と同じ街でごはんを食べる……。そんな一週間。

 

10/3

夜に友人と会う。「まほろば」で晩御飯。おかずとご飯がとてもおいしい。そのあと半空へ。コーヒーバナナシェイクを久しぶりに飲む。

孤独について話した。一度バランスを崩した世界はなかなかもとに戻らない。月並みな願いしか言えないけどみんな幸せになってほしい。

お店で飲食をすると(特にカウンターのあるお店では)みんな何かを演じているように見えなくもない。

 

4日

残業。二人きりになると何を話していいかわからない……そんなときに、その相手との余地を感じる。まだ近づく余地があるということだし、まだ心を許していないという事実でもある。

 

5日

肌寒い。なんだか寝込んでいる間に秋になっていたので、浦島気分。

練習はもう疲れない。すっかり元気になりました。体力が戻って良かった。

 

6日

孤独について話した。今度は職場の人と。

淋しいという気持ちは厄介で、理解はできても解消してあげることはとても難しい。とてもつらいことはわかる。でもそこからどうしていいのか、まだはかりかねている。いま私がそこに触れるのは急な気もして、まだ少し時間が欲しい。

夜は久しぶりにヤンフー。階段を上がると本棚があるのだが、植本一子と滝口悠生の共著『ひとりになること/花をおくるよ』がぱっと視界に入る。読みたかった本。

ご飯が来るまでのあいだに読み始める。

 

単数であるはずの「私」にいつの間にかパートナーである妻を巻き込んでしまっていたり、複数である「私たち」として考えていたはずが、いつの間にかそこに妻が含まれていなかったり。そうやって他者を虚ろにしてしまうこと、それは文章を書くうえでごくごく基本的な、エッセイであれフィクションであれ 踏まえておくべき危うさだと思うのですが、

(植本一子/滝口悠生『往復書簡 ひとりになること 花をおくるよ』滝口悠生の手紙より引用)

ビルの窓がキラって光る装丁がいいね。

かつて植本さんの文章は、家族のこと何もかもこんなに書いてしまって大丈夫かなあと思いハラハラする内容だった。

この本は往復書簡の中で、過去を振り返るかたちで、あの時どんな思いで言葉を綴っていたのか語られている。そう言われるとなるほどなあという気持ち。でも、いつまでも『かなわない』にとらわれるのも可哀想な気もする。それだけ魅力的な魔書だという裏付けなのだが。

植本さんは常に相手に向けて手紙を綴っているのに対して、滝口さんはもう少しふわふわとしており、気になったときに気になったことについて手紙を書いている印象を受けた。どちらがどうとかではなく、感覚の違いがあるように思った。

私は日記を書くときに、誰かのことをどこまで書いて良いのかなと思うことがあって、たくさんあって、だから、上に引用した文が心に残った。

相手のことを試すような言葉もこの本にはたくさんあったが、手紙だから書けるのかもしれない。もしくは、言葉にすることでボーダーを測っているのかもしれない。

ヤンフーのカレーカピタンはとても美味しかった。ここはいつも居心地がいい。

秋服を買う。本を買う。

 

7日

朝から夕方まで練習。夜にまた本を買う。

冷蔵庫に置いていたカヌレを食べたかどうかで夫と喧嘩する。自分はなんてつまらない人間なのだろう。カヌレだけでなく、なぜか急にいろいろなことが不安になって押し寄せてくる。仲直りはしました。

 

8日

久しぶりの雨。そして、久しぶりの休日。好きなものを食べ、好きなことをして、好きな本を買って、好きなものを飲んで過ごした。

 

今週のお題「急に寒いやん」