さみしそうだから、と言われた。
そんなたった一言で、他者が心の中に踏み込んでくる。
そのつもりはなくても、私から見ればそれを言った人はすでに私の領域の中にいる。
心の中のことを指摘されることなんてあまり無くて、それをされる度にいつも怖くなる。
過去にそれをされたときは、いつもうまく行かなかった。自分の感情をひとつ開けられると全部出してしまいたくなる。でも感情をぶつけるのって暴力だよな、と最近わかって、気をつけるようにしている。
話しかけるためのきっかけだったり、その場をつなぐための冗談がその言葉なのだと、わかってはいる。それでも苦手だ。
誰かと話すことは楽しいし、誰かのことを知るのも楽しい。でもその時間が終わったときに残る感覚はただひたすらのさみしさ。話していた相手がいなくなったさみしさと、会話の中で自分を明け渡してしまったことへの不安。失望されていないだろうかとか、わからないままでいるほうが良かったかも、とかそういう不安。でも自分のことはきちんと伝えたい。それでだめならしかたないじゃん、とも思えるよ。
だけど不安はつづく。
他者と関わりを持ったあとの、一人きりで考えなくてはならない、この時間が嫌いだ。
そこまできてようやく、自分はあの言葉どおり、さみしがっているのだと気づく。
さみしさがあって安心する面もある。まだ私、こんなに心が動揺できるんだ。心が動けば動くほど日々はきらきらするし、言葉を書く意欲も湧いてくるから。
心が安定しきってしまえば、私は何も言葉が書けなくなって、残すことができなくなって、生きる意味に影響を及ぼしそうだと恐れている。だから心が不安になったり嬉しくなったり動揺したりすると、まだ大丈夫なんだと根拠もなく思ってしまう。
けどさみしくなるのはつらい。
それならやっぱり、何も感じずに、知らずにいたほうが良かったのになとも思います。
本当はいつだって不安を打ち消す確証が欲しい。それが無いのに、どうしてみんなは他者と関わりつづけて大丈夫だと思えるんだろう?
3月7日
隣の席に座った人と色々、これまでしてこなかったような話をしてみる。
夕方、すべての思考をいったんオフにしたいなぁと思う。そういうときは体を動かすのがてっとり早いのかもしれない。
8日
夫が朝起こしてくれる。私は彼のおかげで生きられている。
最果タヒ『恋できみが死なない理由』読む。
外はとても風が冷たくて、このあと春が来そうだね。
昼食時に隣になった人と、また色々な話をした。(昨日とは別の人)
隣に腰掛ける人ということがどういうことなのかを、考えた。私の場合はたぶん、自分を否定しない相手。
別の人から、出産の予定とかないの? とすごく気を遣われながら尋ねられた。
「したいけど、まだ予定がないからなあ」と素直に答える。
また、思いを声に出してしまった。と、あとから思った。声(会話)にしてしまったら、なぜだろう。すべて心の中で感じていた思いとは別のものとして、この世に出してしまった気になるんだ。
誰も同じでなくていいし、通じ合わなくていいし、わかりあわなくてよくて、それでも話していていいとだけ思いたかった。お互いに、話していていいと思いたい。
(最果タヒ『恋できみが死なない理由』あとがきより引用)
一気に読むには贅沢すぎて、三日に一ページずつ読むのが良いのでは、と思えるような素敵な本だった。
いま、日記をすべて書き終えてひとつ思ったことがあるのだけど、それはまだ書かないでもう少し自分の中に置いておきたい。熟すまで。もしくは、忘れてしまうまで。